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弥彦の奥湯 観音寺 上州苑
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2008年06月15日

黒滝城と上杉家

前回お約束の黒滝城について、戦国時代の上杉家の系譜とともに関係を纏めてみたいと思います。
長文になりますがお許しください。

  (↑クリックで拡大表示)

標高246mの黒滝城は、中世の動乱期に「黒滝要害」と呼ばれ、北陸街道の軍略上の要衝として重要な役割を果たし、守護上杉氏直属の要塞でした。また、若き日の長尾景虎(後の上杉謙信)が、越後の国人領主の支持を集めるきっかけとなった城です。築城の年代は不明ですが、鎌倉時代には小国氏一族が在城したようです。

戦国時代に入ると越後守護の上杉氏と守護代長尾氏との対立が激化、長森原の戦い(1510年)で、長尾為景(景虎の父)が守護上杉顕定を自刃に追い込み、事実上越後は守護代の長尾氏の支配下に置かれることとなります。

天文5年(1536年)、為景は長男の晴景に家督を譲って隠居し1543年に没します。為景の死後、これを待っていたかのように国人領主たちの叛乱が相次ぎ、晴景はこれを抑えきれず、春日山城下の林泉寺にいた当時14歳の弟の景虎(後の上杉謙信)を還俗させて栃尾城に配置しました。

当時の黒滝城主「黒田秀忠」は三条城主長尾俊景らとともに越後守護代長尾晴景に反抗し挙兵したことで、弟景虎軍により1546年に一族もろとも討ち果たされました。

これで景虎が揚北や越後中郡の諸将の支持を得たことで、今度は兄晴景が景虎に対して危機感を抱き、景虎討伐軍を出陣させます。

景虎は米山の戦いで討伐軍を破り、春日山城下に迫りましたが、守護上杉定実が調停に入り景虎が晴景の養子となることで決着、守護代となったあとの景虎は春日山城へと移ります。守護上杉定実に跡継ぎがいなかったため、景虎はやがて上杉の名跡と関東管領を引き継ぎ、政虎→輝虎→謙信と名を変えていきました。

黒田氏討伐後の黒滝城主は上杉家の重臣山岸光祐で、以後山岸秀能、村山慶綱らが城主となりました。 ちなみにこの頃の山岸氏は同じ弥彦村にある桔梗城の城主も兼任していたようです。

上杉謙信には実子がなく天正6年(1578年)に急死すると、二人の養子喜平次景勝と三郎景虎が家督をめぐって対立した御館の乱が勃発します。御館の乱は、初めは景勝と景虎との権力争いでありましたが、後に景勝の反対勢力の制圧へとその性格を変えていきます。景勝は謙信の死後3年にしてようやく敵対勢力を制圧し、中郡まで統一することが出来ましたが、黒滝城主山岸氏は父子で景勝方に味方し軍功をあげたようです。

御館の乱後、景勝政権の中枢は直江兼続を筆頭に上田衆で固めていきます。当時の家臣たちは、景勝を「御屋形」、兼続を「旦那」と敬称し、事実上、二頭政治に近いものでありました。1582年、織田信長軍の北征に窮地に立たされますが、本能寺の変により信長が自害したため上杉家は九死に一生を得ます。その後は、豊臣秀吉に臣従するかたちで後に豊臣政権の五大老の一人となります。

慶長3(1598)年、秀吉の命により上杉景勝は突然会津へ国替えとなります。この会津移封により山岸氏一族もこれに従い黒滝城は廃城となりました。

山岸氏、村山氏の支族は、この地に残り、現存する山岸・村山の集落名はその名残りであると伝えられています。


黒滝城の城山(246m)には天神郭、大蓮寺郭、吉傳寺郭、北は城入の沢を隔てて幕内山、西は剣が峯砦(292m)、南は峻険な蛇崩山、東方は蒲原平野を眺望でき、戦国の時代では中越を牽制する重要な戦略的拠点でありました。

天神郭下段には櫻井戸と呼ばれる大井戸の跡があり、この井戸は豊富な清水が湧き出て、山城に欠かせない水便でした。城岩北側に黒い岩壁から流れ落ちるのが黒滝で、城名もこの滝に因んだものと伝えられています。

昭和50年11月弥彦村文化財として指定され、黒滝森林城跡公園として整備されています。

弥彦村ホームページ「弥彦歴史探訪・上杉謙信」
  


Posted by 弥彦の奥湯 観音寺 上州苑 at 20:21国上山・黒滝城趾